【目に見えているもの=真実】ではないということ

昨日のブログの中で「私の考え方が間違っていたということを、うつ病になったことで初めて気づいた」という話をしました。
そして「あくまでも私の場合はそうだったということであって、うつ病になることを推奨してるわけではない」という話もしました。
それどころか「うつ病にならないで欲しいし、私のように再発を繰り返すことがないようにして欲しい」という話もしました。
うつ病にならなくても、再発を繰り返さなくても、気づけるようになって欲しいと思ってブログを発信してる。
そんな話もしました。
だから、今日も書いています。
私が気づいたことなんて、とっくに気づいてるという人もいるはずです。
わざわざ言うほどのことでもないと思う人もいると思います。
でも…
このブログを見たことがキッカケで何かに気づけたという方がいるなら…
それでいいと思っています。
それがたった1人であっても。
今回お伝えしたいと思うのは、
【目に見えているもの=真実】
ではないということです。
こんなことを言うと、怒る人もいると思うんです。
目に見えてるものが真実に決まってるじゃないか!それ以外に何が真実だと言うんだ!
とか、
「百聞は一見にしかず」という諺があるだろう!見ることはそれだけ重要だということじゃないか!
とか、
「目に見えないものを信じろ」とか言うんじゃないだろうな!そんな宗教みたいな話だったらお断りだ!!
とか。
実際に、こう言って怒った人がいるんです。
少なくとも1名。ここに。(笑)
何を隠そう、私自身です。
「この目で見たものしか信じない」と、心に決めて生きてきた私にとって「目に見えるものが真実と言えない」と言われたのは相当ショックでした。
じゃぁ!何を信じろって言うんだ!
って、カーっと頭に血が登る感じ。
それまで信じてきたものがなくなるというのは恐ろしいことなんです。
だから、あの時の私の怒りは、私の防衛本能だったのかもしれません。
だから、このブログを読んで怒りが湧いてきても、それでいいんです。
怒りながらでいいので聞いて欲しいと思います。
まず、我々は、何かを目で見た瞬間に、ほぼ自動的に解釈が働きます。
それは全く意識することもなく。
例えば、
・朝起きると、娘が不機嫌そうに朝食を食べていて、何かあったのかと気になったが、声をかけづらかった。
ということがあったとします。
でも、これは真実ではありません。
別に、私が嘘を言っているとかいう話ではなく、目に見えたことに対して解釈を加えているから真実と言えないということです。
一切の解釈を外すと…
朝起きると娘が朝食を食べていた。
ということだけです。
不機嫌そうに…とか声がかけづらいというのは、私の勝手な解釈です。
また別の例です。
・駅まで急いで歩いていると、少し前を大きな声で独り言をいいながら歩いている人がいた。危険な人には近づきたくないけど、駅には急いで行きたいし…追い抜きたいけど、追い抜いたら追いかけてこられそうで…結局、我慢して、一定の距離を置いて歩いた。
ということがあったとします。
でも、これも真実ではありません。
見聞きしたものに解釈を加えているので真実と言えないということです。
一切の解釈を外すと…
しゃべりながら歩いてる人がいた。
ただそれだけのこと。
大きな声とか独り言とか危険な人というのは、私の勝手な解釈です。
こうやって、私達は見たもの聞いたものに対して、無意識に解釈を加えて受け取っているんです。
それは、仕方のないことなんです。
私達の命を守るために必要だから。
私達は、見たもの聞いたものに解釈をつけることによって、少し先を予測したり、次にとるべき行動を選択することができるんです。
それがあったから生きてこれた。
だから、これからも必要なんです。
でも…
解釈を加えているということを忘れてしまうと、それが真実だと思い込んしまうんです。
それが危険なんです。
誰かの何気ない仕草や何気ない一言を勝手に解釈して、傷ついたり怒ったり…
そして「あの人のせいで私は…」と誰かを恨んだりしてしまう。
でも、それは必ずしも事実とは言えないということを忘れてはいけない。
私達は、無意識に解釈を加えているんですから。
一切の解釈を外せば
○○さんが□□と言った。
とか。
○○さんが、△△をした。
というだけなんですから。
あなたは、あなたの解釈で苦しんだり悩んだりしていませんか?
うつ病に伴う悩みや心配ごとなど、まずは気軽に、ご相談ください。